古書の愉しみ
飯能高校のシワスセワシです。
古書のたのしみは尽きない。書店と書店との間をふらふらと彷徨い、自分が初めて出会う本の背表紙をざっと流し目に見ることも、そのうちの一冊を手に取ってつい内側の鉛筆書きで書いてある値段をチェックしてしまうのも、すっかりクセになっている。古書と、新品の本との違いとは、何だろうか。使い古され、やや茶色に変色した紙質をもっている古書と、ページの角がいまだに幾何学的な直角を保っており、さらさらとした触感を(さいしょは)傷つけないように意識してしまう新本。私は古書の大きな特徴と魅力として、前に所有していた人とのつながりが得られることをあげたい。
半年くらい前、都内の古書店である文庫本を購入した。講談社学術文庫の本で、日本の古典文学を本格的に読みこなしたい人向けの入門書だ。この古書には、読んだ日付けとともに、読書後の所感とも呼べるメモが見返しのページに書き込まれてある。
以前の持ち主は、この本を足掛け二日で読み終えてしまったようだ。日付けと感想が一字一字丁寧に書かれており、几帳面な読書家であったことがうかがえる。また、別のページにはこのような書き込みがある。
人は言葉によって自分の考えていることを表現する。逆に言えば、人は言葉を選び、発する(または「書かれたもの」として表出する)ときに初めて「何かを考えている」と認められる。Aというものごとを「考えている」ことと、Bというものごとを「考えている」というのは、AとBとに言葉による差異をもうけた場合にのみ、その違いが違いとして認識される。この本の以前の持ち主は、著者が用いていた「正しい」という言葉は「文学あるいは文字、言葉による情報」に対して用いられるべきではないとコメントしている。「正しい」というよりは、「適切な」「望ましい」という別の言葉遣いをした方が、文学を語る言葉としてよりふさわしいと考えているようだ。ここから、かつての持ち主が言葉の意味と使い方に対して注意深い姿勢をもっていたということがわかる。
さらに、この本の奧付のページには、この本を紀伊国屋書店加古川店で購入したことがわかる領収書が貼り付けられている。調べてみると、加古川は兵庫県の市であった。
私はこの領収書を見たとき、ある種不思議な気持ちになった。私が古書として購入した都内からはかなり離れている。なぜ、兵庫県で最初に購入された本が、遠く関東の古書店で再び売られているのだろう。以前の持ち主は、自分の部屋で、この本を一気に読んだのだろうか(もしくは、行きつけの喫茶店で?)。なにより、この領収書に記載された日付けが、私の生まれたちょうど一週間前なのだ。この几帳面な本の持ち主が眉間にしわを寄せながら書見にふけっているあいだ、私は、もうすぐ生まれそうな赤子であった。私が生まれない以前にも、どこかで誰かが生きていたのだ。
思えば今年、暑さで気が滅入りそうになる教室の中で、石田衣良の『旅する本』を生徒さんと読んだ。登場人物のかかえる悩みや、おかれた状況に答えるように、一冊の本はすがたを変えながら街の中に現れた。
私がふと手に取った一冊の古書も、はるばる兵庫県から旅を続けてきたのだろうか。